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最後の医者は桜を見上げて君を想う(1/5)
著:二宮敦人

地域かん病院、武蔵むさししちじゅう病院。三棟九階のはくの城、その二階の外れで面談室の扉が半分ほど開いていた。

殺風景な部屋だった。机と椅子、それにホワイトボードが置かれているだけ。には沈痛な表情で四人が座っている。一人は老人の患者。パジャマの上にガウンをっている。残り三人は、その家族だ。老人の妻と、息子夫婦。

彼らは振り子時計のような、正確なリズムの足音が近づいてくるのを聞いていた。

「お待たせしました」

足音が面談室の前で止まる。きりしゅうは扉をぐいと開き、室内に入って言った。座る時に白衣の袖がふわりと揺れる。小柄なたいに白い肌、色素の薄い虹彩。中性的で、時折どこか淡い印象をかもし出すその医者は、四人の顔をざっと見るなり「面談をご希望の橋田さんと、そのご家族ですね。桐子です」と言った。

「はい、先生、あの……」

「御用件は、病状と今後の経過について確認したいということでしたね」

世間話の一つもなかった。いきなりずばりと核心に踏み込まれ、四人は息をむ。桐子はそのまま、何のちゅうちょもなく告げた。

「カルテ拝見しました。現状より良くなる可能性はほぼないと言ってよいです。橋田さんはご高齢ということもありますので、余命は半年前後かと。あとはどこまで引き延ばすかですね」

「えっ……」

あまりのことに絶句する家族をよそに、桐子は老人の目をのぞき込んで聞いた。

「橋田さんは、どう死にたいですか? 抗がん剤を使えば余命は数か月延ばせると思います。ただ、それは入院しながらの数か月ですが。完全に緩和ケアにシフトし、残りの時間を有意義に使うのも一つの方法ですね」

「ま、待ってください!」

隣で聞いていた息子が身を乗り出す。

「今、抗がん剤治療を行っていて……主治医の方には、少しずつ数値は良くなっていると聞いているんですが」

桐子は紙資料を覗き込む。

「そうですね。悪くはなっていません。ですがこの反応では、かんかいなど望むべくもありません。医学的には、もう手の打ちようはないんですよ。今行っているのは奇跡を祈りながらの時間稼ぎ、というのが本質でしょうか」

「そんな、そんな! だって父は、ようやく夢だった船の免許を取って……自分の時間だってできるようになって。これからなんですよ。何とかならないんですか」

「なりません。何とかなるなら、その方法を言います」

「でも! よく聞きますよ、キノコのエキスが効くとか、ようせんりょうとか、あとは、その、ハーブとか……何か、何かないんですか? ちゃんと検討したんですか?」

「ありません。きちんと科学的根拠があり、かつ有効だと思われるのが現在投与中の抗がん剤です。そして、その抗がん剤では病気の進行は食い止められない。それだけの話です。もう、死ぬ死なないという議論の段階ではないんですよ、時間の無駄。死ぬのは決定事項。来年、お父さんはいないんです。死ぬまでにわずかに残された時間をどう使うか。それを検討しませんか。僕も専門家として、できる限りの協力をさせていただきます」

「あ、あなた! 言うに事欠いてっ……死ぬだなんて。うちのお父さんに何てこと言うんですか。どんな難病でも相談に乗ってくれるお医者さんがいるって聞いたから、わざわざ来たんですよ。わらにもすがる思いで。なのに、そんな言い方、あんまりですっ……」

今度は妻が目を真っ赤にして言った。桐子はげんな顔で首を傾げてから続ける。

「大事な人なんですよね?」

「当たり前です!」

「大事な人だからこそ、真剣にその死に向き合うべきだと僕は思いますが」

その冷めた口調の一言が、家族のげきりんに触れた。

それぞれが、青筋を立ててがなりたてる。面談室はけんそうに包まれた。桐子はまゆ一つ動かさず、眼前の光景をまるで芝居でも見るように眺めている。なぜこの人たちがここまで騒ぐのか、理解できないとばかりに。

そんな中、患者本人だけが。

蒼白そうはくな表情でうつむき、黙り込んでいた。

外はいい天気だが、風が強い。揺れるプラタナスの木を眺めながら、ふくはらまさかずは大またで渡り廊下を歩いていた。健康的に日焼けし、たくましく引き締まったその長身、端正な顔に意思の強さを感じさせる瞳。時折すれ違う職員や患者にしゃくしながら、真っすぐに進んでいく。

「人の気も知らないで! もう、こんな病院には来ません!」

突然怒鳴り声が響き渡った。福原が目をやると、北棟の面談室から家族連れが飛び出してくるところだった。顔を赤くして怒っている。女性の一人は泣きらして顔をおおい、男性に肩を貸されてやっと歩いていた。

「どうしました?」

福原は急いで駆け寄る。

女性は、近づいてきた大柄な男を見てぎょっとしたが、その胸の名札に「外科医 福原雅和」とあるのを見るや、すがりつくようにして言った。

「おたくのお医者さんが。うちのお父さんは死ぬって言うんです」

「何ですって」

「何度も何度も、死ぬって。そんな風に言われたら、治るものも治りませんよ……お医者さんに見放されたら、私たちはもうおしまいです。見捨てるつもりなんですか。苦しんでいる患者を」

「落ち着いてください。ええと、あなたは……血液内科に入院中の橋田さんですね。現在は確か、IC療法の一クール目ですか」

福原は女性を抱きかかえ、パジャマの患者を見て言った。

「ご存知なんですか」

橋田氏の息子は、初めて会った医者が病状を把握していたことに少なからず驚いたようだった。

「副院長という立場上、ざっくりとですが病棟の患者は頭に入れるようにしているんです」

「副院長……?」

福原はせいぜい三十台前半にしか見えない。大病院の副院長にしてはずいぶん若いと思ったのだろう、橋田氏の息子は目を白黒させた。

「そういえば、聞いたことがあります。七十字の外科には、奇跡の手と言われる医者がいるって。難病の患者を立て続けに救って、異例の出世で副院長になったとか」

「いえ、私はまだまだ修行中です。父がここの院長なもので、まあ早いうちから勉強させようということでしょう。それよりも、ご迷惑をおかけしました。すぐに改めて面談をさせていただきます。君、主治医を呼んでくれる? 血液内科のあかぞの君だ」

通りすがった看護師に言い、福原は橋田氏に肩を貸して車椅子に座らせた。看護師は頷くと、早足でナースステーションへと入った。

福原は立ち上がる。見上げるほど大きく、頼もしい姿だった。

「面談には私も同席します。私は外科なので畑違いではありますが、何か手伝えることがあるかもしれません。一緒に病気と戦わせてください」

燃えるような目が、橋田に向けられる。

「橋田さん、諦めてはなりません。医者をやってると、奇跡を目の当たりにすることが実際にあるんです。奇跡は起こるんです。いや、起こしましょう」

背後で扉が開いた。

桐子修司が面談室から出てきたところだった。紙資料をまとめて小脇に抱え、車椅子の橋田氏、家族、そして福原を一瞥いちべつする。

「お大事にどうぞ」

それだけ言うと桐子はきびすを返して歩き出した。振り子時計のような規則正しい足音が遠ざかっていく。

橋田氏の妻がその背を指さし、泣き声で言った。

「あの……あの人です。ひどいことを言った人は」

「重ね重ね、申し訳ありません」

「何なんですか、あの人は。あのお医者さんは」

福原が苦虫にがむしみ潰したような顔で、言った。

科の桐子修司。当院の問題人物です」

第一章 とある会社員の死

 八月十二日

病気とは無縁な人生を送ってきたはまやまゆうにとって、大病院はまるで異世界だった。まるで百貨店のように広大な待合室に、たくさんの人間が座っている。

あまり待つのは嫌だな。早く済ませて仕事に戻りたい。

血液内科外来というところにどう歩けば辿りつくのかもわからず、何度も院内図を確認してエスカレーターに乗る。天井に引かれたレールの上を、四角い白い箱がゆっくりと動いていた。カルテでも運んでいるのだろうか。何もかもが物珍しくて、浜山はあたりを見回した。洗いたてのワイシャツのえりが首に当たる。のりの効いたパリッとした感触が心地よかった。

名前を呼ばれて診察室に入る。

「よろしくお願いします」

ベッドが一つ。患者用の椅子が一つ。かすかに漂ってくる消毒薬の香り。白衣の若い医者が浜山を見て座っていた。大きい顔に対しアンバランスなほど小さな目は、分厚い黒縁眼鏡によるさっかくだろうか。もしくは、その上で存在感を示している太く黒い眉のためか。胸のプレートには「赤園」と名前があった。

あまり美男子とは言えないが、誠実そうではあるな。浜山は勝手にそんなことを思った。

「検査の結果ですが、はっけつびょうです」

赤園は厚い唇をどこか不器用に動かし、小さな声でぼそりと言った。

「……え?」

しばらく沈黙が続いた。

外はまぶしいほどの晴天で、街路樹の影が鮮やかなコントラストを描き出している。せみの声は屋内までも響き、聞いているだけで汗が出そうだ。浜山はただぼうぜんと、医者の顔を見つめていた。

「浜山さんは、会社にお勤めなんですよね」

赤園は眼鏡をくいと上げる。

「あ、はい。今日もこれから客先で打ち合わせがあります」

「じゃ、すみませんがお休みしてもらえますか。すぐ入院しましょう。さいわい病棟に空きがあるようですので、そこに」

「え、入院? 今すぐ?」

赤園は頷く。浜山が身を乗り出した時、椅子ががたんと鳴った。

「ですが今日のプレゼンは三か月前から準備してきたものですし、私が急に欠席というわけにはいきません。数日だけ、いえ今日だけ何とかなりませんか。薬とか、点滴とかで」

「ええと、放置すれば数日で死ぬこともある病気なんですよ」

「え……?」

「いいですか。よく聞いてください。無理にお仕事をされますと、今日のうちに死ぬかもしれません。これはちょうでも何でもありませんよ。本当に、危険な状態なんです」

「そんな……でも、そんなに具合が悪い感じはしませんけど」

「うーん……」

赤園は困ったように手元に目を落とした。そして一枚の紙を取り出して見せる。

「どうしてもとおっしゃるなら、自己責任でお仕事していただいても構いません。ただ、リスクはご承知との旨、このねんしょにサインをお願いすることになるんですが、よろしいですか」

「念書……?」

浜山は念書と赤園の顔を交互に見た。

今日死ぬだって? 俺が? そんな病気があり得るのか?

まるできつねに化かされているような気分だった。だが向けられている赤園の目があくまで真剣であると気づくと、ひざが震えた。

どうなっちゃうんだよ、俺……。

そのまま椅子に座り込み、頼るように医者を見上げた。

「せ、先生。どうしたらいいんですか」

「大丈夫です、ちゃんと治療法は確立されていますから。ええと、まずですね、このあたりに中心静脈カテーテル、という管を入れます」

赤園は首とこつの間あたりを指さして続ける。

「そこから抗がん剤というお薬を投与しまして、これで異常な細胞をやっつけるわけです。そうして、まずは寛解という状態へと持っていくのが当面の目標になります。そうですね、入院期間は二か月少々といったところでしょうか」

「二か月ですって? そんなに?」

「はい。でも心配しないでください、白血病は今は治る病気ですからね。完治目指して頑張りましょう」

赤園はそう言って、元気づけるように歯を見せて笑った。あまり自然な笑いとは言えず、浜山にはむしろ不気味に感じられた。

「もう少し詳しく説明しますと、浜山さんの血液は……」

紙にペンで図を描く赤園の後ろでは看護師が歩き回っている。病床の確保、レントゲンの予約、などといった言葉が聞こえてくる。

今日まで順調に時を刻んでいた歯車が、突如として取り外されたのを感じた。

そして同時に、全く別の異質な何かが、浜山を乗せて動き出した。

極めて静かに重々しく。

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©Atsuto Ninomiya / TO Books.

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