「この間も手術しましたよね。浩平の頭を切ってまで」
「はい」
福原の声には、悔しさが微かに滲んでいる。
「あの手術が失敗だったということですか」
「いえ、成功でした。血腫も脳動静脈奇形も、完全に取り除きました。ただ、今回の出血はまた別の場所なんです」
「どうしてそんなにあちこち血が出るんですか」
「それなんですが……」
福原は早口ではあったが、丁寧に説明してくれた。
そもそもエクモやインペラという機械で血を送る行為そのものが、出血のリスクとなること。最初の出血については、浩平の体質、それから血が固まりにくくなる薬、抗凝固薬を少量ながら投与していた影響があったこと。しかしこの薬を使わないと、今度は血管の中に血の塊、血栓ができやすくなる。血栓は体のあちこちで詰まる危険があるほか、エクモの回路にも入り込む。詰まった回路の交換はできるだけ素早く行うとはいえ、その最中は心臓が止まっているのと同じ状態になるため、体にダメージが出てしまう……。
藍香は正直、話についていくだけで精一杯だった。
それでもぎりぎりの状況の中、医者が懸命に最善を尽くし、浩平の命を繋ぎ止めようとしているのは伝わってきた。
スマートフォンを握る手に、ひどく力が入っていた。
思い通りにならない病状が悔しい。せめて怒りをぶつける相手が欲しい。しかし医者を憎むのは筋違いだった。
福原が繰り返した。
「手術のご同意を」
「わかりました。どうかよろしくお願いします」
「ご来院された際に、手術の同意書にご記入ください」
頷き、藍香は聞いた。
「あの。助かるんですよね」
「助けますとも。全力で」
迷いのない声だった。彼を信じ切れたらどんなに楽だろう。だが、この医者はいつかもそう言った。
藍香はクッションを抱きしめ、しばらく顔をうずめた。腹の底でうごめき始めた不安に必死に蓋をして、立ち上がる。淡々とコートに袖を通し、ハンドバッグを手に取る。軽くリップグロスだけ唇に引いて、部屋の電気を消し、病院に向かって家を出た。
食堂のメニューに七草がゆと書かれているのを見て、福原は久しぶりに日付を意識した。
ついこの間、元旦だったような気がするが。
ふと気づくとあっという間に時間が過ぎている。それだけ一日一日が濃く充実している。しかし不思議と疲れや迷いは感じない。朝起きれば元気いっぱい。三時間しか寝ていなくても平気で仕事ができ、急患があればいつでも飛び出していく。
福原は自分の体力、気力に自信を持っていた。たとえるなら、ろくに休まずとも、どこまでも走り続けられる名馬。自分はそういう力を生まれつき与えられたらしい。が、たまに患者が少ない日など、なぜか不安が頭をよぎったりもする。自分は一度足を止めたら、二度と立ち上がれないのではないか──。
ステーキ定食を注文しようとした時、PHSの電子音が鳴った。
「はい、福原」
福原は列を離れて電話に応じる。
「そうか。わかった」
眉間に皺を寄せて頷く。
「よし、スタッフを集めてくれ。大丈夫だ、すぐ行く」
列に戻れるよう、一人の職員が場所を空けていてくれたが、福原は笑って首を横に振ると、空のトレイを返却口に下げた。
もう、腹一杯食べるような気分ではなくなっていた。
会議室に入ると、すでに他のスタッフは全員揃っていた。みな、暗い顔をしている。
「辻村さん、また脳出血だって?」
福原はため息交じりに席につく。
「はい。これで三回目になります」
電子カルテに目を落とす。
辻村浩平さんは入院からすでに二週間が経過。しかし未だに心臓が動き出さない。その上、出血が依然としてコントロールできない。さらに、数日前からは腎機能が低下し、透析が必要になっていた。
「この状況では、もう……」
誰かの呟きを最後に、会議室は静まり返った。
みな、うすうす結論はわかっていた。だがちらちらと福原を見るばかりで、口にはしない。
福原が奥歯を噛みしめる音が響いた。
「何か方法はないのか」
頭を抱え、ほとんど独り言のように漏らした。福原がそう言うということは、もはや病院としての敗北宣言に等しかった。
「ここが治療限界です」
スタッフの一人が言う。
「もはや打つ手がありません。不可逆的な脳へのダメージがあるため、補助人工心臓も適応外になります」
「わかってる」
福原は拳を握りしめる。力一杯握りしめたその手に、筋肉が浮き上がっていた。また別の医者が言う。
「本当なら、最初の出血時に終わっていました。あれから一週間以上もったんです。私たちは最善を尽くしたと思います」
「そんな言葉。何の慰めにもならない」
深い怒りを押し殺したような福原の声。相手は一瞬ひるんだが、やがて悲しげに続けた。
「もはや回復は望めません。緩和ケアに切り替えるタイミングかと」
福原は顔を上げ、充血した瞳で相手を睨みつける。だがすぐに頭を振ると、苦虫を噛みつぶしたような顔で俯いた。
「そうだな。すまない」
スタッフに八つ当たりしたって仕方がないのだ。
大きくため息をつく。息がどこまでも吐けそうな気がした。体中の空気が、全部出て行くようだった。椅子の固さが、部屋の冷気が、しんしんと伝わってくる。
「助けたかった」
ぽつりと零れた言葉は、静寂の中にかき消えていく。
「これまでのみんなの努力に感謝する」
福原は顔を上げ、仕切り直した。
「辻村さんのご家族は?」
「今、奥さんがちょうどいらしてます」
看護師の言葉に頷く。
「わかった。これから行こう」
それが何を意味するのか、全員が理解していた。
福原はスタッフを一人引き連れてICUに入り、ゆっくりと歩いていく。
辻村浩平は一番奥のベッドに寝かされていた。すぐ横で、妻の辻村藍香が寄り添うように座り、愛おしそうに夫の顔を覗き込んでいる。今なお、装置は精力的に血を入れ替え続けているが──浩平の心臓はほとんど動いていない。
「どう、具合は」
藍香の声が聞こえてくる。
「私は元気だよ。毎日のストレッチも続けてる。こうくんもちょっとだけ、顔色良くなったかな」
その手が優しく撫でている顔を、福原は見た。
入院生活と度重なる手術により、浩平の姿は変貌している。
それは一言で言えば悲惨だった。
瞼は赤く腫れ上がり、うつろな瞳の焦点は合っていない。頭は左右が非対称、左側がむくんで膨らんでいる。黒くて艶のあった短髪はすっかり剃られ、頭皮にはみみず腫れに似た手術の跡が走り、医療用ホチキスで留められている。口には太い管、鼻からは細い管、そして頭からはケーブルが出て横の装置に繋がり、首にも管が入っている。見た目ではわからないが、左の頭蓋骨の一部は外されていて、腹の皮膚の下に埋められている。布団をめくれば、手首や足の付け根から管が出ているのも見えるだろう。
「かぶれちゃって、可哀想に」
チューブの触れる唇の横は、赤く爛れてしまっている。
「そうそう、おせち料理、凄かったよ」
広い病室に、藍香の声と電子音が響く。
「受け取った時、重くてびっくりしたもん。一段目を開けたらロブスター? でっかい赤い海老が、ドーンと。初めて食べたよ、噛み応えがあった。それから甘露煮にも驚いたな。緑色の梅の実みたいなのがコロコロ入ってるから何かと思ったら」
口に放り込んでかじる仕草をしてみせる。
「若桃だって。育つ前に摘み取った小さな桃。あんなに爽やかで甘いなんて知らなかったな。舌触りが滑らかで、種まですっと歯が入るんだよ。こうくんは食べたことあったの? それとも食べてみたくて注文したのかな。どこから見つけてくるのか、いつも不思議に思うよ」
浩平は答えない。
「安心してね、ロブスターも甘露煮も、まだたくさん残ってるからね」
藍香が俯く。声が震えていた。
「そもそも私一人には多すぎるよ。早く食べないと、傷んじゃうよ」
膝の上でぎゅっと握り込まれた拳。
「早く帰ってきてよ。食べてよ。あんなにたくさん頼んでさ、私、あんなに、どうしたらいいか……」
福原は一歩進んだ。
「辻村さん」
ようやく藍香はこちらの存在に気づいたようだった。怯えたような瞳が福原に向けられている。
「別室でお話しできますか」
どうしても低い声になってしまう。
「はい」
顔をこわばらせて藍香が頷いた。
©Atsuto Ninomiya / TO Books.
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