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最後の医者は海を望んで君と生きる(5/5)
著:二宮敦人

「この間も手術しましたよね。浩平の頭を切ってまで」

「はい」

福原の声には、悔しさが微かに滲んでいる。

「あの手術が失敗だったということですか」

「いえ、成功でした。血腫も脳動静脈奇形も、完全に取り除きました。ただ、今回の出血はまた別の場所なんです」

「どうしてそんなにあちこち血が出るんですか」

「それなんですが……」

福原は早口ではあったが、丁寧に説明してくれた。

そもそもエクモやインペラという機械で血を送る行為そのものが、出血のリスクとなること。最初の出血については、浩平の体質、それから血が固まりにくくなる薬、抗凝固薬ヘパリンを少量ながら投与していた影響があったこと。しかしこの薬を使わないと、今度は血管の中に血の塊、血栓ができやすくなる。血栓は体のあちこちで詰まる危険があるほか、エクモの回路にも入り込む。詰まった回路の交換はできるだけ素早く行うとはいえ、その最中は心臓が止まっているのと同じ状態になるため、体にダメージが出てしまう……。

藍香は正直、話についていくだけで精一杯だった。

それでもぎりぎりの状況の中、医者が懸命に最善を尽くし、浩平の命を繋ぎ止めようとしているのは伝わってきた。

スマートフォンを握る手に、ひどく力が入っていた。

思い通りにならない病状が悔しい。せめて怒りをぶつける相手が欲しい。しかし医者を憎むのは筋違いだった。

福原が繰り返した。

「手術のご同意を」

「わかりました。どうかよろしくお願いします」

「ご来院された際に、手術の同意書にご記入ください」

頷き、藍香は聞いた。

「あの。助かるんですよね」

「助けますとも。全力で」

迷いのない声だった。彼を信じ切れたらどんなに楽だろう。だが、この医者はいつかもそう言った。

藍香はクッションを抱きしめ、しばらく顔をうずめた。腹の底でうごめき始めた不安に必死に蓋をして、立ち上がる。淡々とコートに袖を通し、ハンドバッグを手に取る。軽くリップグロスだけ唇に引いて、部屋の電気を消し、病院に向かって家を出た。

食堂のメニューに七草がゆと書かれているのを見て、福原は久しぶりに日付を意識した。

ついこの間、元旦だったような気がするが。

ふと気づくとあっという間に時間が過ぎている。それだけ一日一日が濃く充実している。しかし不思議と疲れや迷いは感じない。朝起きれば元気いっぱい。三時間しか寝ていなくても平気で仕事ができ、急患があればいつでも飛び出していく。

福原は自分の体力、気力に自信を持っていた。たとえるなら、ろくに休まずとも、どこまでも走り続けられる名馬。自分はそういう力を生まれつき与えられたらしい。が、たまに患者が少ない日など、なぜか不安が頭をよぎったりもする。自分は一度足を止めたら、二度と立ち上がれないのではないか──。

ステーキ定食を注文しようとした時、PHSの電子音が鳴った。

「はい、福原」

福原は列を離れて電話に応じる。

「そうか。わかった」

眉間に皺を寄せて頷く。

「よし、スタッフを集めてくれ。大丈夫だ、すぐ行く」

列に戻れるよう、一人の職員が場所を空けていてくれたが、福原は笑って首を横に振ると、空のトレイを返却口に下げた。

もう、腹一杯食べるような気分ではなくなっていた。

会議室に入ると、すでに他のスタッフは全員揃っていた。みな、暗い顔をしている。

「辻村さん、また脳出血だって?」

福原はため息交じりに席につく。

「はい。これで三回目になります」

電子カルテに目を落とす。

辻村浩平さんは入院からすでに二週間が経過。しかし未だに心臓が動き出さない。その上、出血が依然としてコントロールできない。さらに、数日前からは腎機能が低下し、透析が必要になっていた。

「この状況では、もう……」

誰かの呟きを最後に、会議室は静まり返った。

みな、うすうす結論はわかっていた。だがちらちらと福原を見るばかりで、口にはしない。

福原が奥歯を噛みしめる音が響いた。

「何か方法はないのか」

頭を抱え、ほとんど独り言のように漏らした。福原がそう言うということは、もはや病院としての敗北宣言に等しかった。

「ここが治療限界です」

スタッフの一人が言う。

「もはや打つ手がありません。不可逆的な脳へのダメージがあるため、補助人工心臓も適応外になります」

「わかってる」

福原は拳を握りしめる。力一杯握りしめたその手に、筋肉が浮き上がっていた。また別の医者が言う。

「本当なら、最初の出血時に終わっていました。あれから一週間以上もったんです。私たちは最善を尽くしたと思います」

「そんな言葉。何の慰めにもならない」

深い怒りを押し殺したような福原の声。相手は一瞬ひるんだが、やがて悲しげに続けた。

「もはや回復は望めません。緩和ケアに切り替えるタイミングかと」

福原は顔を上げ、充血した瞳で相手を睨みつける。だがすぐに頭を振ると、苦虫を噛みつぶしたような顔で俯いた。

「そうだな。すまない」

スタッフに八つ当たりしたって仕方がないのだ。

大きくため息をつく。息がどこまでも吐けそうな気がした。体中の空気が、全部出て行くようだった。椅子の固さが、部屋の冷気が、しんしんと伝わってくる。

「助けたかった」

ぽつりと零れた言葉は、静寂の中にかき消えていく。

「これまでのみんなの努力に感謝する」

福原は顔を上げ、仕切り直した。

「辻村さんのご家族は?」

「今、奥さんがちょうどいらしてます」

看護師の言葉に頷く。

「わかった。これから行こう」

それが何を意味するのか、全員が理解していた。

福原はスタッフを一人引き連れてICUに入り、ゆっくりと歩いていく。

辻村浩平は一番奥のベッドに寝かされていた。すぐ横で、妻の辻村藍香が寄り添うように座り、愛おしそうに夫の顔を覗き込んでいる。今なお、装置は精力的に血を入れ替え続けているが──浩平の心臓はほとんど動いていない。

「どう、具合は」

藍香の声が聞こえてくる。

「私は元気だよ。毎日のストレッチも続けてる。こうくんもちょっとだけ、顔色良くなったかな」

その手が優しく撫でている顔を、福原は見た。

入院生活と度重なる手術により、浩平の姿は変貌している。

それは一言で言えば悲惨だった。

まぶたは赤く腫れ上がり、うつろな瞳の焦点は合っていない。頭は左右が非対称、左側がむくんで膨らんでいる。黒くて艶のあった短髪はすっかり剃られ、頭皮にはみみず腫れに似た手術の跡が走り、医療用ホチキスステープラーで留められている。口には太い管、鼻からは細い管、そして頭からはケーブルが出て横の装置に繋がり、首にも管が入っている。見た目ではわからないが、左の頭蓋骨の一部は外されていて、腹の皮膚の下に埋められている。布団をめくれば、手首や足の付け根から管が出ているのも見えるだろう。

「かぶれちゃって、可哀想に」

チューブの触れる唇の横は、赤くただれてしまっている。

「そうそう、おせち料理、凄かったよ」

広い病室に、藍香の声と電子音が響く。

「受け取った時、重くてびっくりしたもん。一段目を開けたらロブスター? でっかい赤いが、ドーンと。初めて食べたよ、噛み応えがあった。それから甘露煮にも驚いたな。緑色の梅の実みたいなのがコロコロ入ってるから何かと思ったら」

口に放り込んでかじる仕草をしてみせる。

「若桃だって。育つ前に摘み取った小さな桃。あんなに爽やかで甘いなんて知らなかったな。舌触りが滑らかで、種まですっと歯が入るんだよ。こうくんは食べたことあったの? それとも食べてみたくて注文したのかな。どこから見つけてくるのか、いつも不思議に思うよ」

浩平は答えない。

「安心してね、ロブスターも甘露煮も、まだたくさん残ってるからね」

藍香が俯く。声が震えていた。

「そもそも私一人には多すぎるよ。早く食べないと、傷んじゃうよ」

膝の上でぎゅっと握り込まれた拳。

「早く帰ってきてよ。食べてよ。あんなにたくさん頼んでさ、私、あんなに、どうしたらいいか……」

福原は一歩進んだ。

「辻村さん」

ようやく藍香はこちらの存在に気づいたようだった。怯えたような瞳が福原に向けられている。

「別室でお話しできますか」

どうしても低い声になってしまう。

「はい」

顔をこわばらせて藍香が頷いた。

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